私たちの言う「パレスチナ解放」とは一体どんな意味だろうか?
Translation to Japanese by Rojou
平和都市
私は最近二人の子どもを連れて広島市のパレスチナデモに参加した。連れていった8ヶ月の子にとっては初めてのデモであり、彼の耳にデモの騒音が大丈夫か少し心配していたが、結果何も心配することはなかった。どういうわけか、この行進は全体的にあまりにもおとなしかったからだ。20人ほどのデモ参加者たちを取り巻き護衛する警官たち、困惑し、迷惑そうにしている傍観者たちや観光客、そして先頭から聞こえてくる弱気で使い古されたコールをきちんと拾えていない壊れたメガホンの音。こう思うのは初めてではないが、ここで叫ばれる「パレスチナ解放」とはもはやどんな意味なのだろうか?
広島において、政治的なことはなんでも「平和」または「被害者」という言葉に置き換えられてしまう。歴史は原爆で始まり、年間約250万人が訪れる資料館で終わるのだ。日本の凄惨な東アジアでの戦争犯罪や虐殺について会話で持ち出すことはタブー、もしくは日本的な言葉使いで言えば「失礼」なことである。例えば、広島市によって平和公園にガンジー像は誇らしく歓迎され、ファシストのナレンドラ・モディ首相はその前で微笑みながら写真撮影に応じる。原爆で犠牲になった韓国朝鮮人の記念碑は立っている一方で、いわゆる「慰安婦」を認識するための少女像は存在しないだけでなく、日本政府によって各地で排除の危機にさらされている。
こういった自国の歴史、今日の地政学的な役割を知らずに、被害者意識を便利で独善的な煙幕として利用しつつ、日本の市民たちは帝国主義と植民地主義から得られる利益を享受して生活している。私が思うに、ほとんどの日本の活動家たちが行動をエスカレートさせず、「平和」や「二国家解決」を超えた要求ができない理由は、パレスチナ人による解放のための脱植民地闘争よりも、日本が「イスラエル」国家とシオニズム側にはるかに共通しているからではないだろうか。パレスチナ人の解放を最優先にするあらゆる手段を用いた政治的教育と直接行動を通して、この関わり合いの意味に真剣に向き合う準備ができないうちには、連帯はただのジェスチャーにとどまるだろう。
広範囲にわたる政治教育と直接行動をどのように実現するかはまた別の問題で、私が素晴らしい解決策を持ち合わせているとは言えない。また個人的なレベルでは、他人の行動や無作為、特にガザの虐殺によって最近ラディカルになり、燃え尽きないようにベストを尽くしている多くの人たちのことを批判する立場にはない。しかしその代わりに私が提案したいのは、パレスチナ解放に対する私たちのコミットメントと、闘う価値のある未来へのモチベーションの両方に焦点を当て直し、また鋭くしてくれる可能性のある道具。それは言葉からはじまり、永続的で日常的な革命へと導いてくれる道具である。廃絶(アボリション)だ。
私たちが「パレスチナ解放」を唱えるとき、意味することとは
私たちが広島市内で行われるパレスチナのデモに参加するのは数ヶ月ぶりだった。個人的にはこのデモ企画者には不満が色々あるが、この文章はそのことについてではない。広島の社会運動は日本全体の縮図であり、中国への戦争を挑発をしながら世界的に最も面積も広く兵士の数も多い米軍を持ち、戦争犯罪を意味ある形できちんと認めるということを拒否することで全てを正当化した日本が、うまく構築してきた戦後物語の一部なのだ。
10月7日以降、日本の活動家たちとオーガナイザーはガザのために結集し抗議してきた。17ヶ月の後、パレスチナの地で起きていることは悪化している。このホロコーストと永続的な加担を止めるための力がないように見える。パレスチナ人たちによる、行動をエスカレートさせるようにとの呼びかけにも関わらず、日本のほとんどのオーガナイザーは(公平に言えば、「西側の民主主義諸国」も)、無力、健忘症、現状維持のサイクルにとらわれているように見える。成果の見えなさによって燃え尽き症候群と絶望感にさいなまれているのだ。
「パレスチナ解放」、または「即時停戦」「虐殺をやめろ」と私たちが唱えるとき、それは一体どんな意味なのだろうか?このようなスローガンによる文字通りの要求は国家権力によって無視され続けているが、私がこれを書いている間もパレスチナではこのスローガンと全く逆の現実が起き続けている。許可を得た平和的な抗議が、国家権力の民衆への抑圧の正当化になってしまうように、段ボールに書いたり、ソーシャルメディアに使う不明瞭な言葉が現状に対する効果的な組織化の可能性を薄めている。
曖昧で難解な言葉遣いこそが、日本の「平和」ブランドが、純粋かつ先進的で風変わりな文化生産国だというイメージを世界に売り出すことにとても効果的であってきた一つの理由だろう。それは「イスラエル」がシオニズムにユダヤ教とホロコーストを巧みに融合させてきたことと似ている。また私が日本で話をし、また聞いてきた多くの活動家たちの言う「パレスチナ解放」が、「私は紛争の平和的解決を望んでいる」ということ以上に意味をなさないことと同じでもある。私たちの解放への理解のための一歩が荒唐無稽な「二国家解決」で留まっている限り、どうして心からパレスチナ解放を叫ぶことができるだろうか。
私たちの使う言葉は、ただいつも互いに話しているだけの役割以上のものがある。言葉は、異なる生き方を想像する能力を削ぐこともあれば、想像したことを現実にすることを私たちに強いるための道具でもあるのだ。トランプ大統領がガザを「中東のリビエラ」にするという幻想を率直に語る時、これを暗黙のうちに理解している。また、ハマスが世界の舞台で囚人を解放し、「パレスチナーー抑圧されたものの勝利、シオニズムは敗北するだろう」と言葉を選ぶ時、彼らもその力を理解しているだろう。もし私たちが後者の世界のヴィジョンを望むのであれば、「パレスチナ解放」という言葉のその先を話し、行動しなくてはならない。「イスラエル」が廃絶される近い未来を共に想像しその一歩を踏み出そう。
「イスラエル」廃絶
廃絶主義は、伝統的にはイギリス帝国とアメリカ大陸で行われていた奴隷制度を廃止するために組織化した運動から派生したもので、2020年のジョージ・フロイド事件のさなか、警察を廃止せよとの要求が必然的であると感じられ、そして束の間それが実現可能だと思えた時、確実に人々の関心を得た。廃絶主義には探求すべき豊かな歴史と遺産があるが、自分自身もまだ学びの途上であるために、ここで詳しく伝えられる自信はない。
とはいえ、昨今の事態の中でなぜ廃絶主義が概念と実践の両方でも切に必要であるのかを本能的に理解するのに、私たちはエキスパートでも学者でもある必要はない。パレスチナを支援するということが、世界における道徳的なリトマス紙になり、またはどんな世界に私たちが生きたいのかを問う鏡になってきたことについてはいろいろと議論されているが、同じメタファーが「イスラエル」の存在についても適用できるだろう。私たちが共に生きていきたい世界には、本当に虐殺国家である「イスラエル」が必要なのだろうか?
もしあなたが現在進行形のガザでのホロコーストということでしかパレスチナを知らなかったとしても、堂々とこの虐殺を実行している国家が存在し続けるべき合理的な理由を思いつくだろうか?これは大袈裟ではなく、私はこの質問を真剣に提起しているし、あなたも自分自身とあなたの周りに問いかけてほしい。他者のためにパレスチナ人をさらに非人間化することなしに、あなたはこの問いに肯定的に答えられないはずだ(シオニストでない限り)。私たちはすでになぜ「イスラエル」を廃絶する必要があるのかについてジンを出版したので、この記事の残りは私が見てきた、廃絶主義とのその実現可能性に対してしばしば向けられる共通の批判について述べることにしよう。
理想主義的か、もしくは実践的か
一番よくある廃絶主義への反対意見は、その考え方は理想主義的だとか、非現実的だという意見だろう。もし刑務所を廃絶したら悪い人たちはどこに行くのか?警察を廃絶したら、誰が私たちを守るのか?「イスラエル」を廃絶したら、ユダヤ人たちはどこにいけば?こういった抑圧的な制度(人々の為ではなく、支配階層の保護のために存在する暴力の独占権を持つ国家や機関)の目的が何かということを根本的に誤解していることに加えて、こういった質問は単に私たちの想像力の欠如を映し出している。
私たちが警察や刑務所のない世界を想像できないのは、私たち自身や両親、そのまた両親でさえ、それらなしの世界を生きたことがないからだ。私たちは全人類の歴史の到達点は、神聖不可侵な「西洋民主主義」とこの資本主義的な地獄であり、今耐えてるこの苦しみは突き詰めれば自己責任だということを刷り込まれてきた。こういったことは全く真実ではないのだが、これらは廃絶主義が提示する可能性を退ける言い訳である。その可能性は今日の私たちの社会でもっとも弱い立場にある人々に即効性のある結果を伴うのだ。
例えば、アメリカとカナダの多くの刑務所廃絶団体は産業的刑務所システムの全廃の目的を共有しつつ(中には入植植民主義と資本主義社会の廃絶までその範囲を伸ばしているものもある)、刑務所内との文通プログラムから法的な権利擁護活動、新しい刑務所や警察の訓練施設の建設阻止、移民税関捜査局(ICE)のような機関からターゲットにされる人々をコミュニティによって守る運動まで、広い範囲に及ぶかなり多様で現在的に必要性のある、地に足のついた日々のアクションをくり広げている。廃絶主義の実現が遠いことに思えたり、道のりが確実に困難であるとしても、私たちは新しい世界を創造するための自分たちの力(そして欲望)を絶対に過小評価するべきではないのだ。クリティカル・レジスタンス(米国の廃絶主義団体)はこう言う、「廃絶主義とは実践的な組織化の道具であり、長期的なゴールなのだ」と。
パレスチナ単一国家、または虐殺国家か
パレスチナに関しては、「イスラエル」国家の廃絶に反対する他の批判として、その地に現在住んでいるユダヤ人入植者の将来をどうするのかというものがある。パレスチナ人のための「単一国家」の提案に反対する議論と同じく(それは同時に「イスラエル国家」の解体を必要とする)、このような反対意見はパレスチナ人の人間性を軽視し続けている一方で、シオニストの歴史とプロパガンダへの盲信と無知を晒している。詳細には触れないが、これに対する反論は数多く存在する。例えば歴史的モデルとしてアパルトヘイト後の南アフリカやアイルランド、アルジェリアも参照できるだろうし、中にはかなり面白い案も見つけることができる(そんなに突飛ではない気がするが…さて?)。
私の視点としては、土地を取り戻し解放するために何十年もの虐殺と植民地主義を乗り超えてきた先住民パレスチナ人よりも、あなたが現在の入植者と民族主義者たちの運命をより心配しているのなら、あなたは明らかに廃絶主義が気に入らないというだけではないのだ。今現在そこに住んでいるすべての人間に何が起こるかを含め、「イスラエル」以後の地域がどのようなものであるのかを、時間をかけて私たちは議論できるし、正直するべきではある。しかしそこに至るまでにそもそも、殺人的で凶暴なシオニスト体制を終わらせるための組織化をする必要がある。そう、永久に「イスラエル」国家を廃絶するということだ。この基盤があってはじめて、私たちはパレスチナの未来を誠実に議論することができるのである。
廃絶の実現がどのような形でなされるのかはわからないが、それは他国家による段階的な国家非承認の過程や、「イスラエル」の存在を揺るがす大規模な直接行動キャンペーンのようなものや、全く別の何かによってかもしれない。大切なことは、それが可能だということである。私たちには歴史の前例があり、その結果が必ずしも完全ではなかったとしても、私たちがまさにそのために闘っている、脱植民地化された未来に向かった正しい方向に少なくとも歩みを進めたのだから。
滑りやすい坂道
廃絶主義に反対する議論でもっとも興味深いものが(ほとんどがリベラルによって言われるが)、そのような戦略に前進することが「滑りやすい坂道」を引き起こす、というものだ。もし「イスラエル」を今日廃絶したとして、次に人々が自分たちの抱える腐敗した機関や国家を廃絶しようとするのを止められるか?と。
私はこの心情が、もう一つの可能な世界を作ることを信じている私たちの様な人間に、むしろ励ましを与えてくれていると思っている。これがまさに廃絶主義が国家そのものにとって非常に危険であることの証左なのだ。人々が警察がコミュニティでやるべきとされている役割を自分たちの手に取り戻し、自分たち自身を組織化するならば、彼らは警察の存在が不要なだけではなく、コミュニティそのものにとって害悪であるという事実に気づくことになる。廃絶主義は、私たちの抑圧に責任のあるあらゆる機関の必要性に対して疑問を投げかけると同時に、自分たち自身で組織化し、また共に生きる方法を創造・模索することを私たちに迫るのだ。
こういった闘いには意味なく、実践的ではないと思っている否定論者や冷笑者とは対照的に、パレスチナ人の抵抗は過去そしてこれからも、ラディカルな違った世界のあり方は実現可能だと信じるすべての人々への励みとして私たちを率いる力になるだろう。歴史は常に、機関銃に対抗する石、ゴリアテに立ち向かうダビデ、純粋な強欲さと殺意に満ちた憎しみに反逆する自由の不可能性だった。その彼らの頑固さのおかげで、今私たちは滑りやすい坂の絶壁に立っている。さあ、もう一押しするだけだ。
国家というものは、自由やシオニズムといった概念とは正反対に、解体可能な物理的な構築物だということを思い出すこともまた助けになるだろう。アル・アクサ洪水作戦のおかげで、「イスラエル」は今までの歴史の中でもっとも脆弱になった。「平和」ナラティブの過小評価を維持し続け、NGO /NPOの世界の終わりない迷路をさまよったり、問題に直面することを避け、長期的で効果的な組織化をくじくやる気のなくなるような合法的デモに参加する代わりに、私たちは多様な策略と、私たちの共通目的としての廃絶主義による「イスラエル」粉砕の道を通して、彼らの脆弱さを確かめ、その弱さを増幅させることにフォーカスすべきだ。
「西側」にいる多くの人々が執拗に叩き込まれてきた、非暴力、平和、民主主義という信仰と教義から抜け出すことは容易なことではない。抱えきれないほどの絶望的なカタストロフの淵にいるこの地球で、この記事で私が何度も参照したような、より良い世界ーーおそらく「イスラエル」が廃絶されるような状況さえもーーが可能だと想像するのが困難なのは当然だ。それでもなお、人々がこの希望とそれ以上のものに向かって日々闘っていることを忘れがちである。パレスチナの人々は彼らの子どもこそが、ようやく故郷の解放を目にし、自由と尊厳のもとで暮らすことができる、その小さなチャンスのために命を落とし続けているのだ。廃絶は理想主義ではない。それは私たちがパレスチナ解放とその先に向かって、たった今取り組まなければならない実践である。絶望の他に何もないと感じた時、廃絶こそが私たちの手の届く未来を照らす光となるだろう。
Translation to Japanese by Rojou



